うさぎ  久々の出張ブログです。まじめなビジネスマンの方はここから下は全くお仕事に関係ないので・・・・
お忙しいお仕事の合間の休憩にどうぞ・・・


ご無沙汰しています。中日ドラゴンズ負けてしまいました・・・。
でもよくやってくれたと思います。
ロッテの打線はすごかった。シリーズ制覇おめでとうございます。
両チームお疲れ様でした。まさか11月まで野球観戦できるとは思いませんでした。

久々の出張でしたのでそのレポートを・・・・。
待ち合わせた岡山駅には南南東を見渡す人影あり・・・・。

ももたろう です。

調べたところ、高松沖約4kmに浮かぶ女木島が通称・鬼ケ島と呼ばれており、央鷲ヶ峰山頂には、鬼の棲み家と言い伝えられる大洞窟があります。
地図で確認しても間違いなく南南東に位置しています。

さらに岡山といえば、忠臣蔵の英雄と言われている大石内蔵助です。


忠臣蔵には諸説あります。

なぜ刃傷沙汰になったかという理由ですが・・・・・、

塩の精製方法を教えてほしいと頼んだのはどちらだ?とか
頼み方が気にくわない?とか

吉良家は足利時代の守護職で、三河の国を治めていたことから家康はこれを優遇し、幕府でも一段高い大名だったことから、浅野家の事を田舎侍呼ばわりをした?とか

映画や歌舞伎や浄瑠璃では松の廊下で浅野家の殿様は「この間の遺恨覚えたるか!!」
と叫んだ?とか・・・・これは何を意味しているのか?

などいろいろ諸説、疑問ありますが、史実と忠臣蔵は異なります。

忠臣蔵は・・・
江戸時代中期、元禄14年3月14日 (西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて
京都からの勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂(兵庫県)五万三千石の殿様、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつける刃傷沙汰(にんじょうざた)に端を発する。

この松の廊下事件では、加害者とされた浅野は即刻切腹、赤穂の城は没収、家臣は失職離散。被害者とされた吉良は吉良上野介はお咎めなし。
しかし武家諸法度(法律)により喧嘩両成敗とさだめられている。

その結果を不服とする家老 大石内蔵助良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人が、元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)両国松坂町 「吉良屋敷」 への討ち入り、まだ暗い未明、激闘2時間の末、御首を挙げた四十七士は、主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋し、墓前に首級を供えた。

翌年2月、大名家にお預かりとなっていた全員が武士として名誉ある切腹を命ぜられた。

という話です。


そしてその時がやって来ました(NHK その時歴史が動いた 風 です)
1701年の6月25日に決意をもって大石は船で赤穂を旅立つのです。
その時の決意はいかばかりかと思います。

大石内蔵助が船で赤穂から京都の山科へ向かうとき、御崎の老松を見て名残を惜しんだという言い伝えが残っています。当時の松は枯れているが、今同じ場所にあるのはその子孫と考えられています。



忠臣蔵では、浅野家再興を否定された大石内蔵助良雄が主君の仇討ちをするというストーリーになっていますが、
吉良の殿様は、城も作らず治水に力を注ぎ、農耕馬(赤馬)に乗って領地をこまめに周り領民にとても慕われておりました、さらに超一流の作法も心得ているという、立派を絵に描いたようなお殿様だったとあります。
実際、吉良には黄金堤が残っています。領主である吉良家が相当の費用をかけて、治水工事を行った証拠です。地元では英雄とされています。
しかし最後にはお家断絶となっています・・・。

逆に赤穂(あこう)では、浅野家取り潰しになったとき、領民は赤飯(炊けたどうかは疑問です。貧しかったはず・・・)を炊いてお祝いをしたと言う文書が残っているという話もあります。
これは浅野家の領民への政策は良くなかったと言えるのではないでしょうか?

そんなことで今となっては浄瑠璃や歌舞伎や映画としての忠臣蔵はエンタテイメントとして見るべきと思います。実際、脚色や創作が多いのを大衆も認めていると思います。


最後に大切なこと忘れていました。

マンホールからも歴史が偲ばれます。
このマンホールはなんと新品でまだカバーが掛かっていました。うさぎが除幕しました!!


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